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第110話 孤独の影⑥

مؤلف: 花柳響
last update آخر تحديث: 2026-01-28 06:01:34

 ◇

 廊下に出た征也は、ドアに背中を預けたまま、動けずにいた。

 膝から力が抜け、ずるずると床へ崩れ落ちそうになるのを、歯を食いしばって必死で堪える。

 左手が、小刻みに震えていた。

 彼女に触れようとして、拒絶された手だ。

 『気持ち悪い』『吐き気がする』

 莉子の悲痛な叫びが、呪いのように鼓膜にへばりついて離れない。

「……っ、ぐ……」

 喉の奥から、乾いた呻きが漏れた。

 痛い。

 心臓を素手で鷲掴みにされ、握り潰されたようだった。

 四年前。まだ何者でもなかった自分が、彼女の家の事情を知りながら、何もできずにただ指をくわえて見ているしかなかったあの日。自分の非力さを骨の髄まで思い知らされたあの時よりも、ずっと深く、致命的な傷だ。

(……これでいい)

 征也は、震える手で顔を覆った。

 あそこで「俺じゃない」「神宮寺がやったんだ」と説明することはできた。

 だが、今の俺にそれを証明する手立てはない。

 神宮寺蒼は狡猾だ。自分の手を汚さず、すべての痕跡を綺麗に消し去り、俺になすりつけている。

 今、莉子に真実を告げても、「往生際が悪い」「嘘つき」と罵られるだけだ。

 それに、下手に神宮寺を刺激すれば、奴は何をするか分からない。莉子の身に、取り返しのつかない危険が及ぶかもしれない。

 ならば、自分が泥を被り、悪役になればいい。

 父の仇として憎まれ、軽蔑されても、彼女をこの手元に置いて守り抜く。

 それが、不器用で愚かな今の自分にできる、唯一の償いであり、愛し方だ。

「……嫌っていいぞ、莉子」

 誰もいない薄暗い廊下で、彼は誰に聞かせるでもなく呟いた。

「俺を殺したいほど憎んでくれ。……そうすれば、お前は俺から目を逸らせない」

 歪んだ論理だとは分かっている。

 でも、そうでもしなければ、心が粉々に砕けてしまいそうだった。

 征也は壁に手をついて立ち
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  • 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~   第109話 孤独の影⑤

     部屋に残された私は、その場に崩れ落ちた。 床に散乱した書類の海の中で、膝を抱えて小さくうずくまる。 これで、よかったはずだ。 彼がひた隠しにしてきた罪を突きつけ、拒絶し、言葉の刃でその心を切り裂いてやった。父を死に追いやった無念を、ほんの少しは晴らせたはずだ。 それなのに。 どうして、こんなにも胸が痛いのだろう。 最後に見た、征也の目。 『気持ち悪いか』と呟いた時の、あの一瞬の表情。 まるで、迷子が親に見捨てられた時のような、どうしようもない孤独と恐怖が滲んでいたあの目が、脳裏から離れない。(……騙されないで。あれは演技よ) 自分自身に言い聞かせるように、奥歯を強く噛みしめる。 彼は父を追い詰め、全てを奪い去った略奪者だ。それだけは、決して揺るがない事実なのだから。 蒼くんがくれた証拠は嘘をつかない。 でも、もし。もし、まだ私の知らない真実があったとしたら? 彼はなぜ、あんなにも悲しそうな顔をしたの? 頭が割れそうだ。 私は書類の束をかき集め、ゴミ箱に叩き込んだ。見たくない。何もかも忘れてしまいたい。 ブブッ、と手元のスマートフォンが短く震え、思考を現実に引き戻した。 無機質な液晶画面に浮かび上がる『蒼くん』の文字。 まるで、この密室での出来事を壁の向こうから覗いていたかのような、絶妙すぎるタイミングだった。『見たかな? 辛かっただろう。……でも、これで君も目が覚めたはずだ』 メッセージの続きが表示される。『準備はいい? 来週、病院へ行くだろう? その時、迎えに行くよ。……あの悪魔の手から、君を救い出すために』 来週、病院。 なぜ蒼くんがそのことを知っているのか。今の私には、そんな疑問を持つ余裕さえなかった。 私は涙を拭い、スマホをぎゅっと握りしめる。 もう、迷いはない。断ち切らなければならない。 この冷たい檻のような屋敷を出る。 母を連れて、天

  • 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~   第108話 孤独の影④

     不意をつかれた征也が、よろりと一歩後退る。 その隙に私はベッドの反対側へと逃げ、喉が裂けんばかりに叫んだ。「もう触らないで! 二度と、私に触れないで!」 金切り声が、広い部屋に反響する。「気持ち悪い! あなたの手も、声も、匂いも……全部! 吐き気がするのよ!」 自分の体を抱きしめ、二の腕に爪を立てた。 彼に触れられた感触を、皮膚ごと削ぎ落としてしまいたかった。「……っ」 征也の動きが、ぴたりと止まった。 彼は、見えない拳で殴りつけられたような顔をしていた。 いつも完璧な鉄面皮を張り付け、感情を殺していた彼の表情が、一瞬だけ、音を立てて崩れ落ちたように見えた。 漆黒の瞳の奥で揺れていた暗い炎が、ふっと消える。 代わりに残ったのは、魂が抜け落ちたような、底知れぬ虚無だった。 彼は自分の手を見つめた。 私を抱きしめようとして拒絶された、行き場のないその手を。 指先が、微かに震えている。「……そうか」 息の詰まるような沈黙の後、彼が絞り出した声は、ひどく掠れていて、まるで別人のようだった。「……気持ち悪いか」 それは問いかけではなかった。ただの、絶望的な確認。 彼はゆっくりと手を下ろし、強く拳を握りしめた。爪が掌に深く食い込み、関節が白く浮き上がるほどに。 彼が今、何を考えているのか。混乱した私の頭では理解できない。 ひどく傷ついているように見えるのは、私の見間違いだろうか。 父を殺した冷血漢が、たかが手に入れた女一人に拒絶されたくらいで、傷つくはずがないのだ。 きっと、自分の所有物が思い通りにならなくて苛立っているだけだ。そうに違いない。 征也は深く息を吸い込み、再び冷徹な仮面を被り直した。 私を見る目は、もう何の熱も帯びていない。 氷のように冷たく、そしてどこまでも遠い目。「いいだろう」 彼は、床に散らばった書

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  • 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~   第106話 孤独の影②

     怒鳴るわけでもない。淡々とした、部下に指示を出す時のような声色。 それが余計に、彼の冷酷さを際立たせていた。 父の死に関わる書類を、まるでただの業務報告書のように扱う態度。「……嫌」 喉が張り付いて、声が擦れる。 それでも、睨みつける視線だけは逸らさない。「返さない。……これ、お父様の形見よ。あなたが奪った、お父様の命そのものじゃない」「形見だと?」 征也の眉が、わずかに動く。 彼は差し出した手を下ろすと、どさり、とベッドの端に腰を下ろした。 マットレスが大きく沈み込み、彼の体重が生々しく伝わってくる。 近い。 ムスクと煙草の混じった匂い。数時間前まで、安心できる香りだと思って肺いっぱいに吸い込んでいたそれが、今は腐った花のように鼻につく。「それは、ただのビジネスの記録だ。……いちいち感情を持ち込むな」「ビジネス……?」 頭の中で、何かが切れる音がした。「人を自殺に追い込んでおいて、それがビジネス? 会社を乗っ取って、バラバラに解体して……それがあなたの言う仕事なの?」 私はファイルを彼に向かって投げつけた。 バサリと紙束が散らばり、あの『清算完了』のメモが、征也の膝の上に舞い落ちる。「答えて! これがお父様への復讐だったんでしょう? 4年前の、私への腹いせに……私の家を潰そうと計画したんでしょう! 『清算』って、そういう意味なんでしょう!」 征也は膝の上のメモを拾い上げ、目を細めた。 その瞬間、彼の瞳にさざ波のような揺らぎが走ったのを、私は見逃さなかった。 図星なのだ。「……違う」 彼は短く否定した。けれど、その声にはいつもの傲慢な響きがない。「何が違うのよ! 証拠はあるの! 日付も、サインも、あなたの筆跡も……全部ここにあるじゃない!」

  • 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~   第105話 孤独の影①

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