INICIAR SESIÓN心臓の奥が、熱いナイフで切り開かれたような、鋭い痛みを伴う歓喜。 結衣はパーカーの袖の中に、自分の両手を深く隠した。 誰にも見つかりたくない。 このまま、この雨が止まらなければいい。 このまま、この冷たいコンクリートの隅で、彼の歌を聴きながら、彼の熱に侵食されていきたい。 レイの歌が終わる頃、雨の勢いはさらに増し、高架下の暗闇を深く塗り潰していった。 結衣は自分の鼓動が、レイの奏でるギターのリズムと、完全に重なり合っているのを感じていた。 初めて知る、自分の意志で選んだ、一人の人間への渇望。 それは、父が母に向けたあの狂信的な愛よりも、ずっと脆く、けれど、どうしようもなく生々しい熱を持って、結衣の魂に刻み込まれようとしていた。 結衣はパーカーのフードをさらに深く被り、鼻先まで布を覆い隠した。 そこにある、彼の匂い。 柔軟剤と、微かな煙草の残り香。 その匂いが、彼女の「白亜の牢獄」に繋ぎ止められていた心を、静かに、けれど確実に解き放っていく。 高架の外では、遠くで鈴木が自分を探し回る無機質な声が聞こえたような気がしたが、結衣はただ、その匂いの中へと深く、深く沈んでいった。 雨の音だけが、二人の静寂を優しく包み込み、夜の帳を下ろしていく。 結衣の指先が、パーカーの裾を、離さないように強く、強く握りしめた。 止まっていたはずの彼女の時計が、今、この汚れた高架下で、不器用な音を立てて回り始めた。 ◇ それから一時間後。 結衣は邸の玄関ホールに立っていた。 床に滴り落ちる雨水。 鈴木をはじめとするSPたちが、青ざめた顔で彼女を取り囲んでいる。「お嬢様、ご無事で何よりです……。すぐに着替えの用意を」 結衣は何も言わず、ただ自分の身体を包んでいる「灰色のパーカー」を、奪われないようにきつく抱きしめた。 びしょ濡れの高級な制服の上に、場違いなほど薄汚れた、安物の布地。 そこからはまだ、あの高架下の匂いが、レイの熱の残滓が、微かに漂っていた。
「……っ」 視界が、瞬時に灰色の布地に覆われる。 目の前が真っ暗になった瞬間、全身を包み込んだのは、圧倒的な「他人の熱」だった。 パーカーの生地は、何度も洗濯されて表面が毛羽立ち、少しだけゴワついている。 けれど、そこには、少年の身体から移ったばかりの、驚くほど高い体温が残っていた。 鼻を突く、強い匂い。 柔軟剤の奥に潜む、彼自身の肌の温もりが混じった、独特の匂い。 それは、征也が莉子の病室で纏っている、あの完成された静寂の匂いとは全く異なるものだった。 泥臭くて、不器用で、けれど今この瞬間、確かに「生きている」ことを証明するような、激しい熱量。 結衣はパーカーの袖に腕を通し、その大きな布地の中に自分の身体を縮めた。 指先に触れる、安物のポリエステルの質感。「……暖かい」 掠れた声で呟くと、少年は自分の腕をさすりながら、満足げに頷いた。「でしょ。安物だけど、風は通さないからさ」 彼は再びパイプ椅子に座り、ギターを抱え直した。 フードの下から覗く、細い首筋。そこには、女性のように白く滑らかな肌と、けれど少年特有の硬いラインが共存している。「……あなたは、ここで、いつも歌っているの?」 結衣はパーカーの襟元を掴み、その匂いを逃さないように深く吸い込んだ。「気が向いた時だけ。ここは、音が綺麗に響くから。……君みたいなお姫様が来る場所じゃないけどね」「お姫様……」「だって、その靴。ピカピカじゃないか。……僕のギターが何十本も買えるくらい、高いんだろう?」 少年は皮肉めいた様子もなく、ただ事実を述べるように言った。 結衣は自分の足元を見つめた。 泥水に汚れ、光沢を失ったローファー。「……今は、ただのゴミよ。……こんなの、何の役にも立たない」「ははっ、手厳し
そこは、切り取られたような別世界だった。 湿ったコンクリートの匂い。錆びついた鉄骨から滴り落ちる水の音。 薄暗いオレンジ色の街灯が、湿り気を帯びた空気を澱んだ色に染めている。 その静寂を切り裂くように、一つの音が響いてきた。 ジャラン。 乾いた、けれど重厚な弦の振動。 アコースティックギターの旋律が、コンクリートの壁に反射し、幾重にも重なって結衣の耳に届く。 その音色に導かれるように、彼女は高架の奥へと歩みを進めた。 柱の影に、その人はいた。 壁に背を預け、安物のパイプ椅子に腰掛けた、一人の少年――あるいは、そう見えるほどに中性的な容姿をした若者。 フードを深く被り、顔の半分は影に隠れている。 使い込まれたギターの表面には、無数の傷が刻まれ、彼の指先が動くたびに、硬い弦が鋭く空気を震わせていた。 結衣は、息をすることさえ忘れて立ち尽くした。 少年の唇がゆっくりと開き、透明な、けれどどこか寂しげな歌声が紡ぎ出される。 それは、複雑なテクニックを駆使した音楽ではない。 ただ、心の奥底にある「誰にも届かない言葉」を、一つずつ丁寧に形にしているような、ひどく純粋で、剥き出しの響き。 天道邸で流れる最高級のクラシックとは、対極にある音。 磨き抜かれた完璧な音色ではなく、不純物が混じり、ざらついた、けれど確かな「熱」を持った歌。 少年の指が最後の一音を爪弾き、余韻がコンクリートの壁に溶けて消えた。 彼はゆっくりと顔を上げ、影の中から琥珀色の瞳を覗かせた。 その瞳が、ずぶ濡れのまま立ち尽くしている結衣を真っ直ぐに捉える。「……あ」 結衣の唇から、小さな吐息が漏れた。 自分を見つめるその眼差しには、天道の令嬢に対する卑屈さも、下劣な好奇心もなかった。 ただ、雨宿りに迷い込んだ、一人の少女を見るような、どこまでも平坦で、けれど不思議な温かみを湛えた視線。「……ずいぶん、派手に濡れたね」 少年の声は、歌声と同
校門を出た瞬間に頬を叩いたのは、初夏の湿り気を帯びた重たい雨だった。 アスファルトに叩きつけられる無数の水滴が、白く煙るような飛沫を上げ、街の色彩を塗りつぶしていく。 天道結衣は、学校指定の紺色の傘を深く差し、足元を汚さないよう細心の注意を払いながら歩を進めた。 数歩後ろには、完璧な歩調で付き従う黒いスーツの男――SPの鈴木の気配がある。 彼の存在は、結衣にとって空気と同じだった。意識する必要さえない、けれど決して剥がすことのできない「天道家の令嬢」という記号の象徴。「お嬢様、車を回しております」 鈴木の抑制された声が、雨音の向こう側から届く。 結衣は足を止めず、わずかに顎を引いてそれに応えた。 校門のすぐそばに停車している、艶やかな黒塗りのセダン。その車内に入れば、再び外界から遮断された無機質な静寂が訪れる。 家に戻れば、そこにあるのは莉子の不在を証明し続けるような、冷たく磨き上げられた「白亜の牢獄」だ。 陽向がいなくなってから一週間、邸内の静寂はさらにその濃度を増し、壁の隙間から孤独が染み出してくるような錯覚さえ覚える。(……帰りたくない) ふと、胸の奥で小さな火花が散った。 それは、いつもなら理性の奥底に沈めてしまう、ささやかな反逆の芽だった。 結衣はふいに向きを変え、セダンとは逆の方向、駅へと続く繁華街の雑踏の中へと足を踏み入れた。「お嬢様! どちらへ」 鈴木の困惑した声が追いかけてくる。 結衣は振り返らず、少しだけ歩調を速めた。「少し、歩きたいの。車は先に戻っていて」「しかし、社長からは……」「五分だけ。そこの駅ビルで買い物がしたいの。……あなたも、あまり目立ちたくはないでしょう?」 結衣は肩越しに、冷ややかな視線を向けた。 佐伯を切り捨てた時と同じ、相手を一歩も近づかせないための、天道家の冷徹な仮面。 鈴木は苦渋に満ちた表情で足を止め、無線機に手を伸ばしながらも、一定の距離を保って彼女を追う形
この手は、父と同じ手だ。 愛するものを守る、助けるという大義名分を掲げながら、その実、相手の意思を無視し、自分の支配下に置かなければ気が済まない、呪われた手。 自分の中に脈々と流れ続けている『天道の血』が、初めて明確な形を持って、彼自身の理性をあざ笑っていた。 彼女を大切にしたいという純粋な初恋すらも、この血は無意識のうちに「支配」という傲慢な形に変換して出力してしまう。 自分は、本当に、あの男の血を引く『怪物』なのだ。「……ごめん」 陽向の声は、先ほどの熱が嘘のように、掠れ、無惨に震えていた。 結月は、壁に背を張り付けたまま、手首で涙を拭い、荒い呼吸を繰り返している。 その姿を見るのが、自分の存在が彼女をそこまで追い詰めてしまったという事実が、陽向の胸を八つ裂きにするように痛めつけた。「俺は……」 陽向は、それ以上言葉を続けることができなかった。 何を言っても、それは結局、自分のための言い訳にしかならない。 これ以上ここにいれば、彼女をもっと傷つけてしまう。 自分の内側にあるこの黒い衝動が、彼女を完全に壊してしまう前に、ここから立ち去らなければならない。 陽向は、ギュッと目を閉じ、血が滲むほど奥歯を噛み締めた。 鼻の奥に、彼女の涙の匂いと、初夏の湿った土の匂いが混ざってツンと刺さる。「……もう、二度と君に近づかない。約束する」 その言葉は、自分自身に枷をはめるための、痛みを伴う誓いだった。 陽向は、目を開けると、結月に背を向けた。 そして、振り返ることなく、初夏の陽射しが降り注ぐキャンパスの出口へと向かって歩き出した。 背後で、結月の微かな嗚咽が聞こえるような気がした。 その音が、陽向の背中を無数の針のように刺し貫く。 スニーカーの底が、アスファルトを重く叩く。 ポケットの中の、あのチョコレートの重みが、今はただ、自分の浅はかさと滑稽さを嘲笑うかのように、歩くたびに鈍く太腿にぶつかり続けていた。
彼女の後ろにはもう、逃げ場はなかった。「……っ」 陽向の胸の奥で、どうしようもない苛立ちと、焦りが渦巻く。 なぜ分かってくれないんだ。 俺は、君を傷つけるつもりなんて一ミリもないのに。 ただ、君のあの柔らかい笑顔を、もう一度見たかっただけなのに。 言葉が通じないもどかしさが、陽向の青年らしい幼さを暴走させる。「俺の話を、聞いてくれよ!」 陽向は、彼女に自分の切実さを伝えたくて、無意識のうちにさらに一歩、大きく踏み込んでいた。 長身の彼の影が、壁際に追い詰められた結月の小さな身体を完全に覆い隠す。 彼女の逃げ場を塞ぐようにして、陽向は右手を伸ばした。 触れた瞬間。 ——熱い。 薄いカーディガン越しに伝わってくる、彼女の肩の体温。 しかし、それは雨の日に図書館で指先が触れ合った時の、あの心地よい温もりとは全く異なっていた。 ガチガチに強張りきった筋肉の感触。 陽向の大きな手が肩に触れた瞬間、結月はビクッと体を硬直させ、大きく息を呑んだ。「や、やめて……っ、離して……!」 結月が、陽向の手から逃れようと必死に肩を捩った。 その懸命な抵抗が、陽向の掌に生々しく伝わってくる。 彼女の目から、ついに恐怖の涙がこぼれ落ち、眼鏡のレンズの奥で光った。 その涙を見た瞬間。 陽向の脳裏に、ある光景が鮮烈に蘇った。 ——静まり返った天道邸の廊下で、母・莉子の手首を、痛いほどの力で握りしめていた父の横顔。 ——「どこにも行くな」と告げる、あの重苦しいほどに濃密な声音。 ——父の溢れんばかりの溺愛を浴びながら、時折、母が浮かべていた、困ったような、どこか息苦しそうな微かな溜息。 父が母を傷つけようとしていたわけではない。それは陽向もわかっていた。父は、母なしでは生きていけないほどに彼女を愛し、慈しんで
雨に濡れたスウェット生地が、彼と私の肌の間で不快な重みを伴って張り付いていた。 タクシーの後部座席。 密室に充満するのは、湿った布の匂いと、雨の鉄臭さ。そして、天道征也という男が発する、過剰なほどの熱量。 彼は私の右手を両手で包み込み、自身の太腿の上に固定して放さない。指の関節が白く浮き出るほどの力強さだが、掌からは小刻みな震えが伝わってくる。「……寒くないか」 掠れた声が、喉の奥から絞り出される。「大丈夫です。征也くんこそ……そんな格好で」 視線
喧騒の渦から吐き出されるようにして、バルコニーへの出口付近まで辿り着く。 そこでようやく、征也が足を止めた。 振り返った彼が、私の顔を覗き込む。眉間に深い皺が寄っていた。「……大丈夫か。無理させた」「ううん……平気」 強がって見せたものの、言葉とは裏腹に、身体は正直だった。 張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、膝の力が抜ける。カクン、と視界が落ちそうになった瞬間、征也の腕が私をさらった。 抱き留められた、というより、しがみつくような格好になる。
「あなた……っ! よくもそんな口を……! 週刊誌を見たでしょう!? 世間はみんな知ってるのよ! あなたが汚い手を使って征也様をたぶらかしたって!」 彼女はバッグから、あの週刊誌を取り出し、私の顔の前に突きつけた。「見なさいよ! これが証拠よ! あなたはただの金目当ての家政婦! 私が正当なパートナーなの!」 唾が飛んできそうなほどの剣幕。 しかし、私は瞬き一つせず、その雑誌を一瞥しただけで視線を戻した。「……週刊誌の記事が、身分証明書代わりになると
◇ 病院の玄関を出ると、いつもの黒塗りのリムジンが待機していた。 運転手が恭しくドアを開ける。 征也は私を後部座席に押し込むように乗せると、自分も隣に乗り込み、すぐに私の腰を引き寄せて密着した。 広い車内なのに、彼との距離はゼロだ。 太腿が触れ合い、肩が重なる。 彼の匂い――ムスクと微かな煙草、そして彼自身の体温の匂い――が、私の肺を満たしていく。 この匂いに包まれていると、あの監禁されていた日々の恐怖が、薄皮を剥ぐように遠のいていくのが分かる。 「……どこへ行くの?」 車窓を







