ログイン周囲の喧騒が遠のき、二人の急ぎ足の靴音と、荒い息遣いだけが響く空間。「待って、朝比奈さん。少しでいいから!」 陽向は、彼女の数メートル後ろまで迫り、焦燥感に駆られて声を張り上げた。 結月が息を呑み、急ブレーキをかけるように立ち止まった。 彼女の靴底が、アスファルトをザリッと擦る。 彼女は振り返ることなく、胸に抱えたバインダーを盾にするように強く握りしめ、肩を小刻みに震わせていた。 陽向は、彼女の背中から二歩離れた位置で立ち止まった。 これ以上近づけば、彼女をさらに怯えさせてしまうという理性が、辛うじて働いていた。「……逃げないでくれ。昨日のこと、謝りたくて」 陽向の声は、少し上擦っていた。 自分でも情けないと思うほど、懇願するような響きが混じっている。 結月は、ゆっくりと、恐る恐るこちらを振り返った。 その顔は青白く、眼鏡の奥の瞳は不安に揺れている。「……謝るって、何を……ですか」「やりすぎた。……君を助けようとして、つい頭に血が上って……あんな、相手を徹底的に追い詰めるような脅し方をして。……怖がらせて、ごめん」 陽向は、深く頭を下げた。 誠意を見せれば、きっと伝わる。自分が本当に彼女を案じていたのだと、分かってくれるはずだ。 しかし、結月の口からこぼれたのは、陽向の期待とは全く違う言葉だった。「……頭に血が上って、あんなことが、すらすらと言えるの?」 細く、かすれた声。 陽向はハッとして顔を上げた。 結月は、バインダーを抱える腕にさらに力を込め、後ずさりするように一歩引いた。「天道くん……昨日のあの人たちを脅している時、ちっとも怒っているようには見えなかった。……すごく冷たい目で、相手がどうすれば一番傷つくか、どうすれば一番絶望するか、完全に分かっ
机の上に置かれたノートパソコンの黒い画面に、自分の強張った顔が映り込んでいる。 講義開始の五分前。 重い木製のドアが開き、見覚えのあるネイビーのカーディガンを着た小柄な影が現れた。 朝比奈結月だった。 陽向の背筋が、無意識にピンと伸びる。 彼女は、教室に入るとすぐに、怯えた小動物のように周囲へ視線を巡らせた。 そして、後方の席に座る陽向の姿を見つけた瞬間。 ビクッと、その細い肩が大きく跳ねた。 彼女は弾かれたように視線を逸らし、陽向の席から最も離れた、最前列の隅の席へと小走りで向かうと、背中を丸めるようにして座り込んだ。 陽向の胸の奥で、ギリッ、と不快な音が鳴った。 彼女が自分を明確に『避けている』という事実が、物理的な痛みとなって臓腑を抉る。(……なんで、そんなに怯えるんだ) みぞおちのあたりが、熱く焼けるように痛む。 それは怒りではなく、拒絶されたことに対する純粋な傷つきだった。 あんなならず者たちに絡まれていた時、助けに入ったのは俺だけだった。 雨の日、傘に入れて駅まで送った時は、あんなに柔らかく笑ってくれていたじゃないか。 なのに、なぜそんな、得体の知れない怪物を見るような目で俺を見るんだ。 陽向の掌に、じわりと嫌な汗が滲む。 講義が始まっても、老教授の単調な声は一言も頭に入らなかった。 陽向の視線は、何十列も前方に座る結月の、小さな背中だけに固定されていた。 彼女の肩が、時折不自然に強張るのが見える。 背後からの自分の視線に気づき、硬直しているのだ。 彼女にそんな思いをさせたいわけじゃない。ただ、昨日のことを謝って、誤解を解きたいだけなのに。 言葉を交わせない距離が、もどかしくてたまらない。 陽向は、手元のボールペンを、折れるほど強く握りしめた。 プラスチックの軸がミシミシと軋む音が、自分の心臓の音のように大きく聞こえた。 ◇ 講義終了のベルが鳴った瞬間、結月は誰よりも早く席を立った。
薄っぺらいカーテンの隙間から、白々しい朝の光が容赦なく差し込んでいた。 陽向は、硬いフローリングの上に直に敷いた布団の中で、浅く濁った眠りから強引に引き剥がされた。 枕元のスマートフォンが、無機質なアラーム音を鳴らし続けている。手探りで画面を叩き、音を止める。 部屋の中には、昨夜干したままの生乾きの衣服の匂いと、微かなカビの臭いが淀んでいた。 頭の芯が、鉛を流し込まれたように鈍く重い。 昨夜、あの渡り廊下で結月が自分に向けていた、怯えきった瞳。 それが何度も夢に現れ、その度に自分の手が彼女を暗闇へ突き飛ばすような錯覚に苛まれて、まともに眠ることができなかった。 陽向はのろのろと身を起こし、狭いユニットバスへと向かった。 ひび割れた洗面台の前に立つ。 蛇口を捻ると、古びた配管がガタガタと鳴り、冷たい水が勢いよく吐き出された。 両手で水を掬い、顔に何度も叩きつける。 肌を刺すような冷たさが、ようやく意識の輪郭を少しだけはっきりさせた。 前髪からポタポタと水滴を落としながら、陽向は顔を上げ、鏡に映る自分を見つめた。 目の下には薄く青い隈が張り付き、ひび割れた唇からは血の気が失せている。 長く、形の良い眉。鋭く通った鼻筋。 そして、相手の奥底まで見透かすような、色素の薄い瞳。 どこをどう切り取っても、あの父・天道征也の血を濃く受け継いでいると嫌でも自覚させられる顔立ちだった。(……俺は、間違ったことはしていない) 洗面台の縁を両手で強く握りしめながら、陽向は心の中で必死に言い訳を反芻した。 木崎たちから彼女を守るためには、あのように有無を言わさぬ力でねじ伏せるしかなかった。口先だけで窘めても、彼らのような人間はすぐにまた別の形で彼女に危害を加える。それを完全に断ち切るための、一番確実な手段を選んだだけだ。 俺は、父さんのように自分の欲望のためだけに力を振るったわけじゃない。 彼女を、助けたかっただけだ。 ちゃんと説明すれば、きっと分かってくれる。俺があの男たちと同じような人間では
ザリッ。 結月の靴底が、アスファルトを擦って、さらに後ずさる音が鳴った。 彼女の両腕は、胸のバインダーを抱きしめるのではなく、自分自身を守るように固く組まれている。 小刻みに震える肩。 浅く、ひきつるような呼吸。「こ、こないで……っ」 結月の唇から、掠れた悲鳴のような声が漏れた。 その言葉は、先ほど彼女が、あのならず者の木崎に向けた拒絶の声よりも、はるかに切実で、深い絶望を含んでいた。 風が吹き抜け、彼女から漂ってくる匂いが、陽向の鼻腔を打った。 あの優しかった石鹸の香りは、今はもう感じられない。 極限の緊張状態から発せられる、鋭く、痛々しい恐怖の匂い。 陽向は、伸ばしかけていた自分の右手を、空中でピタリと止めた。 その手は、先ほどまでスマートフォンを突きつけ、相手の未来を盾にして物理的な暴力以上の恐怖でねじ伏せていた腕だ。(……俺は) 陽向の脳裏に、あの日、執務室で自分を冷徹に見下ろしていた父・征也の姿が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇った。 相手を守るためだと言い訳をして。 自分の力を誇示し、相手の退路を断ち、圧倒的な恐怖で支配する。 自分が先ほど木崎に対して行った行為は、まさに父が周囲の人間に対して行ってきた「呪い」の再生産に他ならなかったのだ。「……違う。俺は……」 陽向の喉から、掠れた声がこぼれる。 けれど、結月の瞳には、陽向の弁解など届いていなかった。 彼女の目には、陽向という不器用な青年ではなく、他者の尊厳を平然と握りつぶす、冷酷な支配者の姿しか映っていない。 彼女を、守りたかっただけなのに。 彼女の、あの柔らかな笑顔を、取り戻したかっただけなのに。 陽向の視界が、ぐらりと揺れた。 ポケットの中にある、あの安価なチョコレートの重みが、今は焼け焦げた鉛のように熱く、重く感じられる。 結月は、陽向から視線を外さないまま、さらに数歩
残されたのは、陽向の冷酷な視線に晒されている木崎だけだ。「あ、あいつら……っ、おい、わかった、悪かった! もう手は出さねえから、その動画消してくれ!」 木崎の声が、先ほどの威勢の良さを完全に失い、情けない哀願へと変わる。「……言葉が軽い」 陽向は、木崎を見下ろした。 胸の奥で暴れ狂っていた暗い炎が、男の屈服を見ることで、少しずつ凪いでいく。 自分の力で、外敵を排除した。 彼女の世界から、脅威を完全に消し去った。 自分の支配下にあるものを守り抜くための、完璧な処刑。「彼女に謝れ。……俺が見下ろす位置ではなく、もっと誠意の伝わる形でだ」「は……?」「土下座しろと言っているんだ、木崎」 低く、地を這うような命令。 抵抗を許さないその冷たい響きに、木崎の膝が、ガクガクと震え始めた。 社会的な死という恐怖を突きつけられ、彼はもはやプライドを保つことすらできなくなっていた。「わ、わかった……! 謝る、謝るから……っ!」 木崎は崩れ落ちるようにして、アスファルトの上に膝をついた。 両手をつき、地面に額を擦り付けるような無様な姿勢。 彼は震える声で何度も「すいませんでした」「もう二度と近づきません」と繰り返した。 陽向は、足元で這いつくばる男を、虫けらを見るような目で見下ろした。 もう十分だ。これ以上は無意味な残骸でしかない。「……二度と、彼女の半径十メートル以内に近づくな。次に見かけたら、社会的に終わらせてやる」 陽向が低く告げると、木崎は這うようにして立ち上がり、何度も振り返りながら、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。 静寂が、渡り廊下に戻ってくる。 風が吹き抜け、木々の葉がザワザワと音を立てた。 陽向は、大きく息を吐き出した。 スマホの録画を停止し、ポケットに仕舞
自分の世界に土足で踏み入り、自分の庇護下にある存在を脅かした者を、徹底的に排除しなければ気が済まない衝動。 陽向の瞳の奥から、青年らしい瑞々しい光が消え失せ、底知れない深淵が広がっていく。「……お前ら、名前は」 陽向の声が、先ほどよりもさらに一段階、低く沈んだ。 それは、喧騒に包まれていた渡り廊下の空気を、ビリビリと震わせるような、異質な響きを持っていた。 陽向は、右手に持っていたスマートフォンを、男たちの目の前へと突き出した。 画面には、赤い録画マークが点滅している。「な、なんだよそれ。撮ってんのか!?」「さっき、お前が彼女の腕を掴んで無理やり連れて行こうとしたところから、全部録画させてもらった」 陽向の冷たい瞳が、金髪の男の顔を射抜く。 男は慌てて陽向のスマホを奪おうと手を伸ばしたが、陽向はそれを軽く躱した。「無駄だ。データはすでにクラウドに同期されている。今ここでこの端末を壊したところで、何の解決にもならない」「ふざけんな! 消せよ!」「……お前、三年の木崎だな。経済学部の」 陽向は、男が首から下げていたサークルのネームカードを、視線だけで一瞥した。「木崎。……お前がたった今、数分の浅ましい欲求で満たそうとしたのは、自分自身のこれからの数十年の人生だ」「は……? 何言って……」 木崎の額から、じわりと脂汗が滲み出した。 陽向の顔には、怒りも焦りもない。ただ、相手の弱点を正確に把握し、真綿で首を絞めるような、息の詰まる静けさだけがあった。「お前たちが彼女の行く手を塞ぎ、腕を掴んで恐怖を与えた動画。……これを、大学の学生課と警察に持ち込めばどうなると思う? 単なる勧誘の行き過ぎでは済まされない。明確な暴行未遂、あるいは強要の証拠になる」「ぼ、暴行なんて大げさな……!」「大げさかどうかは、第三者が判断することだ。&he
私の心が弱いからだ。まだ、あの優しかった「征也くん」の面影を捨てきれずにいるからだ。 征也はふっと口の端を歪めた。 自嘲とも、蔑みとも取れる笑み。「……優しいな、人殺し相手に」「っ……」「心配するふりなんてしなくていい。……お前は、俺が早く死ねばいいと思ってるんだろう」 彼はグラスを煽り、空になった器をテーブルに叩きつけた。 ドンッ、という音が響き、私は肩を震わせる。「違います……
◇ 翌日。 重く垂れ込めた雲の隙間から、色のない光が差し込んでいた。 雨は止んでいたけれど、湿気を帯びた空気は肌にまとわりつくようで、屋敷全体が巨大な水槽の底に沈んでいるような息苦しさがある。 私は身支度を整え、足音を忍ばせて玄関ホールへと降りた。 姿見の前で立ち止まり、ひきつった自分の顔を見つめる。 睡眠不足で透き通るほど青ざめた肌も、丹念にメイクを重ねれば、平気なふりができる。嘘をつくための仮面だ。 鏡の中の自分が、無意識のうちに首元へと指を這わせていた。 鎖骨のくぼみに、硬質な重み
◇ 今夜の会場は、都内の一等地に佇む歴史ある会員制倶楽部だった。 石造りの重厚な外観。エントランスに敷かれた深紅のカーペット。 車寄せには見たこともないような高級車が列をなし、そこから吐き出される紳士淑女たちが、光の洪水の中へと吸い込まれていく。 政財界の有力者たちが集う、年に一度の晩餐会。 かつて月島家が栄えていた頃、父に連れられて何度か足を踏み入れたことのある世界だ。 けれど今の私は、月島家の令嬢ではない。 天道征也という、新興の帝王が連れてきた「戦利品」として、ここに立っている。
エリカは蛇のように細い目で私を上から下まで執拗にねめ回すと、わざとらしく口元を押さえて吹き出した。 「まあ、征也様、冗談でしょう? そんな薄汚れたものを、わざわざこんな格式高いお店に連れてくるなんて。お店の絨毯が腐ってしまいそうですわ」 エリカの言葉は、鋭い刃物となって私の耳を切り裂いた。店員たちの視線が、さらに一段と冷たく、鋭くなったように肌に刺さる。 私は反射的に、ドレスの上から自分の腕を抱き、身を縮めるしかなかった。 エリカは隠そうともしない嘲笑を浮かべたまま、すぐ側まで歩み寄ってくる。彼女が纏っているきつい香水の匂いが鼻を突き、胃の奥からこみ上げるような吐き気が私を襲っ







